PERSONS
獣医師からメディカル翻訳者へ
自身の特性を見極めてキャリアチェンジ
忙しいなか時間を捻出して通信講座で勉強。医学の知識を生かして、現在は医薬品関連の分野をメインにフリーランスの医薬翻訳家として活躍中です。
地方在住でも、子育てで時間が取られても、翻訳者なら自分の努力次第で続けられる。佐古さんが辿ったキャリアチェンジの軌跡をお話しいただきました。
獣医師から翻訳者へ
中学生のころから動物が好きで、何か動物関係の仕事に就きたいと大学で獣医学部に進み、小動物臨床、いわゆるペットを診る獣医師を目指しました。 英語はもともと好きな教科で、獣医学部で薬理学教室に所属してからは、学生が毎週持ち回りで薬理学テキストの英語版を訳して発表していたのですが、私は「ぜったいわかりやすい日本語に訳すぞ!」という意識でやっていました。
卒業後は、はじめは札幌の動物病院で1年半ほど、その後に東京の動物病院では産休をはさんで5年ほど勤務しました。向上心を持って勤めていましたが、しばらくすると獣医師としての自分の力に限界を感じるようになりました。医師も同じだと思いますが、病気もさまざまなら、飼い主さんもさまざまです。治る病気や治らない病気、経済的余裕がなくて最善の治療を選択できない飼い主さん。獣医師として、1日に数多くのペットを診察したり、緊急事態に対処したりするには、決断の瞬発力が必要です。実際に獣医師になってみて、それぞれのペットの治療法を決めるときに獣医師が考えなければならないことの多さを実感しました。
ちょうどその頃に、副院長先生から文献を訳してくれないかと頼まれ、勤務の合間に翻訳をすることになったんです。家に帰ると自炊する気力もないような生活だったのですが、不思議と翻訳は仕上げることができました。それがきっかけとなって、ある翻訳会社が運営していた通信講座を受講するようになりました。
翻訳の勉強を始めてみると、納期までに情報を収集する時間があり、しかも調べればある程度自分を納得させることができる翻訳という仕事のほうが、自分には向いているのかもしれないと考えるようになりました。
子どもが生まれると、子どもの急病で保育園から呼ばれることが多くなりました。また、子どもから風邪をうつされて休むことも増え、周囲に迷惑をかけずに仕事がしたいという思いが強くなったんです。そこで夫の仕事の都合で愛知県に引っ越すことになったときに獣医師を辞め、翻訳者を目指すことを決意しました。
仕事を辞めて時間ができたので、本格的に勉強しようと、フェロー・アカデミーの通信講座で、入門から上級講座まで受講しました。通信講座はマイペースで学習できて、子育てとも両立しやすいのがメリットですね。難点といえば、モチベーションを維持しにくいことでしょうか。私の場合、「いつでもできる」と思っているうちにいつの間にか提出締切日の間近になったり、中だるみの時期にそのままやめてしまおうかなと弱気になったり……。通学していれば、頑張っている仲間から刺激をもらって持ち直せることもあるのではないかと思います。そこは意思の力が必要ですね。
学習と並行して翻訳者ネットワーク「アメリア」に入会し、クラウン会員の資格を取得することができました。自分の実力は仕事ができるレベルかどうか、「この程度で翻訳者として応募してよいものだろうか?」と悩んでいたのですが、クラウン会員になれたことで翻訳会社の試験に挑戦してみようと思えました。まずは獣医師時代に受講していた、通信講座を運営している翻訳会社に連絡してみたところ、トライアルを受けさせてもらえることに。無事合格し、以来おつきあいが続いています。
培ってきた獣医師の知識を生かしつつ、翻訳者としてスタート
ほかにもアメリアなどで求人を探して何社かトライアルを受け、おかげさまで今は順調にお仕事をいただいています。最初は、私の経歴を考慮してか、獣医学の文献や農学・畜産関係の仕事の依頼が多かったのですが、畜産はともかく、農学では植物関係になるとわからない言葉が多くて、時間がかかる割に満足度の低い出来になりがちでした。そんな時、翻訳会社から「どのような分野を受注したいか」というアンケートをいただきました。そこで「治験関係」「医薬関係」と希望を出したところ、徐々にそのような仕事が増えてきて、現在は医薬品関連の仕事がメインとなっています。 あとから思えば、せっかく納品時にメールをやりとりしているのだから、「医薬関係の翻訳も手がけていきたいと思っております」とひとこと添えておけば早かったのかもしれませんね。
また、駆け出しの頃に、「なんだか変だな」と思いながらも納品してしまったことがありました。“arm”という単語だったのですが、納品後にやっぱり気になってよく調べてみたところ、臨床試験などの「群」という意味があることがわかり、あわててメールをして訳語の訂正をお願いしたんです。経験が浅いころは、調査に時間をかける必要があるので、十分な作業時間を取ることが大事だと反省しました。 本来、翻訳は完璧な状態で納品しなければならないので、納品後の訂正は繰り返してはならないことですね。
現在は副作用報告書、治験薬概要書や添付文書 、医薬品承認申請関連資料などの医薬品関連文書の和訳が多いです。副作用報告書はCIOMSという決まった形式に従っているため、使用される用語にそれほど大きな違いはないのですが、クライアントごとに文体や日付の表記方法などの指定が違うので神経を使います。このほかに、医薬関係の論文を紹介する記事を作成するお仕事をいただいています。
長く翻訳をやっていると自分なりの文体が形成されてきますし、こだわりも生まれてきます。しかし、特に差分翻訳(新版で追加・変更された文章のみを対象とした翻訳)では既存の文章表現に近づける必要があるので、あくまでクライアントの要求に応えることを優先し、自分のスタイルにこだわりすぎないよう気をつけています。
また、頻繁に登場する重要語は、もし定訳が見つからなくても、Wordの置換機能などを用いて一つの訳語に統一しておくよう心がけています。原語と訳語が一対一の対応になっていれば、後でもっと適した訳語が見つかった場合に一括置換できるからです。
母として、プロの翻訳者として
平日は朝、子どもを学校に送り出してから家事を済ませてから仕事を始め、買い物や外出の用事を済ませつつ18時頃まで仕事、その後も家事をして夜に1~2時間仕事、というサイクルが基本です。土日は休むようにしていますが、仕事が忙しい時は朝食を作る前や土日のどちらかに仕事をいれたりして対応しています。ただ、毎日仕事をしているとだんだん集中力が落ちてくるので、なるべく週1日はまったく仕事をしない日を作って気分をリセットするようにしています。
それから、デスクワークはどうしても体重が増えたり体力が低下したりしがちなので、健康にはけっこう気を付けています。健康を害して納期に間に合わなくなったら大変ですからね。毎朝散歩したり、ときどき山に登ったりして、無理のない範囲で体を動かすようにしています。週1回、なぎなたの稽古にも通っているのですが、始めて1年くらいは稽古後によく腰が痛くなりました。きっと体が歪んでいたんですね。今では腰痛はなくなり、「姿勢がいいね」とほめられるようになりました。
翻訳は孤独で地道な作業です。同じような文章ばかりで嫌になることもありますし、あまり興味のない分野の依頼でなかなか作業が進まないこともあるかもしれません。でも、翻訳を通して病気や薬剤の知識が増えるという楽しみもあります。また、クライアントに感謝していただいた時は喜びもありますし、次の仕事にもつながります。翻訳は「習うより慣れろ」です。ある程度習ったら積極的にさまざまな案件にチャレンジして、頼りになる翻訳者を目指してください。
取材協力
佐古絵理さん
医薬翻訳家。動物病院での勤務を経て医薬翻訳に転向。2008年にJTFほんやく検定1級を取得(医学・薬学分野の和訳および英訳)。現在は主に治験に関する各種計画書・報告書などの医薬品関連文書の和訳を行う。その他、獣医学関連文書の和訳や医薬論文紹介記事の執筆も行なっている。