PERSONS
セリフに込められた感情だけでなく、
漫画に描かれたすべてを英訳にのせる
多くはその言語を母語とする翻訳者が手がけていますが、そんななかに一人、日本人の日英翻訳者がいます。
Tomo Kimuraこと木村智子さんです。
日本のインターナショナルスクールに通い、大学はアメリカでコンピュータ・サイエンスを専攻、帰国してソフトウェアエンジニアとして働いた後に漫画翻訳家に転身。
いったいどんな転機があったのでしょうか。お話をうかがいました。
エンジニアから漫画翻訳家へ
家の方針で、私は幼稚園から高校までインターナショナルスクールに通いました。高校卒業後はアメリカに留学。理系の教科が好きで、大学院でコンピュータ・サイエンスを専攻したこともあり、卒業後は帰国してソフトウェアエンジニアとして就職しました。メインの仕事はソフトウェア開発でしたが、日常的な仕事として、ソフトウェア製品関連資料の和訳やマニュアルの校正などがありました。また英語ができるということで上司の社外会議の通訳にかり出されたり、先輩研究員の論文の英訳の手伝いなどを頼まれたりもしました。
勤めはじめた頃はIT業界も景気が良く、仕事量も残業も多かったです。技術は進歩しますから、週末に勉強したりもしていました。そんな日々で、30才を過ぎた頃には体にガタがきていました。そのうちにITバブルがはじけ、会社は人員整理です。いよいよ私の番になりましたが、その頃には体調が最悪で、精神的にも燃え尽きていて、自宅療養していたんです。
そんなとき、漫画などの趣味を通して知り合った友人から連絡が来たんです。「サンフランシスコにあるVIZ Media という会社で働いているんだけど、一緒に働かないか」と。VIZ Mediaは日本の漫画やアニメの翻訳出版を行うアメリカの会社です。少年漫画を中心に翻訳出版しているが、本格的に少女漫画を出版していくことになったので翻訳者を探している。そのトライアルを受けてみないか、という誘いでした。
漫画は子どもの頃から大好きで、ずっと読んでいました。私が10代の頃は、少女漫画誌に SF作品の連載が多くて、『紅い牙(狼少女ラン)』『最終戦争シリーズ』などが特に好きでしたね。英国貴族もので初めて好きになった『バジル氏の優雅な生活』などもよく覚えています。
ただ、それまで翻訳家を目指したことはなかったですし、なれると思ったこともありませんでした。翻訳は会社の業務で多少経験したことがあるというものの、特に学んだこともありませんし、ましてや漫画を訳すなんて初めての経験で、何をどうしていいのかもわかりませんでした。でも、失業中の私にとって大きなチャンスです。ダメもとでやってみようと思いました。
何度も読み込むと頭に響いてくる、
主人公の声をそのまま訳す
少女漫画の作品を自由に選んで、冒頭の10〜12ページを訳して送るというのがトライアルの内容でした。確か2004年秋だったのですが、その頃連載が終了したばかりの『満月(フルムーン)をさがして』という作品を訳すことに決めたんです。
いざ翻訳にとりかかってみると、「翻訳って楽しいな」とか、そんなことを考える余裕はまったくなく、何とか訳しあげて提出しなければと必死の思いでした。ただ、子どもの頃から漫画に限らず本を読むのが好きで、児童文学などもたくさん読んでいて、小説には漫画のように画はありませんが、読んでいるうちになんとなく頭の中にイメージがわき上がってきたり、キャラクターがしゃべる様子が想像できたり、そんな感じで本を読んでいた記憶があったんです。
ですからこのときも、まず頭の中にイメージがわき上がってくるまで作品を読み込むことから始めました。読んでいると主人公の女の子のイメージができあがってきて、頭の中でセリフを語る女の子の声が響くようになってきたんです。あとは、その主人公になりきって訳しました。この娘はこんなキャラクターだから、英語だったらこんなふうに話すだろうな、というのを想像しながら。
トライアルの訳文は、何人かの編集者にランダムに振り分けられて採点されたようです。トライアルを受ける時点では、私はまったく知らなかったのですが、実はこの作品はすでに翌年の出版が決まっていて、しかも私のトライアル訳文をチェックした編集さんが担当者だったんです。その編集さんから「君の訳のノリが気に入った。仕事として訳してみない?」とお言葉をいただき、漫画翻訳の初仕事になりました。
こうして漫画翻訳家としてスタートしたわけですが、最初の頃は特に、仕事の手順がわからず、それを一から作り上げるのが大変でした。ある程度のワークフローを確立できたのは、単行本を何冊か訳し終えたあとでしたね。やり方もわからないまま、とにかく訳し、試行錯誤しながら今の自分のスタイルを築き上げていったという感じです。
ひとくちに漫画といっても、漫画雑誌に1話分が掲載されているものと、単行本化されて完結しているものでは、若干違いがあります。例えば、翻訳を依頼された作品が、既に日本で単行本が何巻か出ているものだとしたら、そこまでをまず読み込むことから始めます。一度だけ読むのではなく、最初から最後まで通して読んだら、次は主人公のセリフだけ拾ってつなげて読んでいき、次に主人公が好きになる相手のセリフを拾い読みし、といろんなパターンで読み倒すんです。日本語でもキャラクターごとにセリフの言い回しに特徴があったり、性格や感情が言葉に出ていたりしますよね。それを英語のセリフでも再現しないといけないので、キャラクターごとの口調を決めるためにも深く読み込みます。
そんなふうに何度も読んでいると、話の構成も自然と頭に入ってきます。「あ、ここは伏線だな」とか「このセリフが大事だ」ということもわかってきます。そういう大事なセリフは読者にとっても印象に残るはずですから、言葉選びはより慎重になります。特に伏線になっているセリフは、訳しかたによってはネタバレになるので気を付けなければなりません。
これが雑誌の1話分となると、単行本のように先を読んでクライマックスや伏線を知った上で訳すというわけにはいかないので厄介です。最近は日本でもまだ連載が終わっていない作品を訳し始める場合が多いので、含みを持たせたセリフの真意がわからないまま、勘を頼りに訳さなければならないこともけっこうあります。正に読者と同じ状況です。自分が読者なら「この先どうなるの?」とワクワク楽しめますが、翻訳者となるとドキドキです。勘が外れることも、もちろんありますが、それは仕方がありません。そこからまた軌道修正していきます。
連載作品の最新話が掲載される雑誌の発売日に、その英語版を電子書籍として同日に配信するサイマル配信というものもあります。先が見えない大変さに、1話分を訳すのに実質半日〜1日しかないという時間的な大変さが加わります。
字面ではなく、画からも情報を得て英訳にのせる
漫画の翻訳はセリフがメインです。セリフにはさまざまな感情がこもりますから、字面だけで訳していてはダメ。同じセリフであっても、紳士的な男性が言うのか、ちょっと不良っぽい少年が言うのかで違いますし、どういうシチュエーションで言っているのか、誰に向かって言っているのかでも、違うはずです。ファンタジー作品の場合には、登場人物が人間とは限りません。地球ではない世界が舞台で、人間以外にエルフもいれば、ドラゴンもいる。そういうキャラクターの行動原理は人間とはぜんぜん違ったりするので、セリフの訳し方も変えなければなりません。そこまで読み込み、それを表現する英語の言葉を選ぶことが大事です。
例えば、男の子が、主人公の女の子に向かって「行きましょうか」と言う場面がありました。字面だけ訳せば、“Shall we go?”などとできますよね。他にも、“Let us go.”“Come on.”“Come with me.”いろいろ考えられます。でも、どれでもいいかというと、そうではありません。漫画は画とセリフがセットですから、セリフだけではなく画を見なければいけないんです。
このシーンの画を見ると、男の子はすでに女の子の手をとって引っ張って行こうとしています。ちなみに、男の子は優雅な物腰の王子様キャラで、女の子のお父さんから面倒をみてくれと頼まれているという背景があります。となると、同意を得るような“Shall we go?”はふさわしくありません。押しの強いタイプなら“Come on.”でもいいかもしれませんが、そういうキャラではありません。私はここは丁寧に訳したほうがいいと判断し“Let us go now.”にしました。
それから、日本語と英語の構造上の違いで苦労することもあります。例えば、日本語のセリフだと動詞をはっきり言わずに「……」で濁して終わることってありますよね。でも英語は主語の次に必ず述語がくるので、動詞だけを抜かして曖昧に言うということができないんです。私はストーリーの先まで読んでいるので、このセリフで本当は何が言いたいのかわかるのですが、でもそれを入れてしまったらネタバレになってしまいます。それはタブーなので、動詞を抜かしたうえでなんとか英語のセリフになるように工夫しなければなりません。
また、単行本を翻訳する際には作品の本編に加えて、単行本のみに収録されているコンテンツも英訳しなければなりません。例えば、日本の単行本にはカバーが付いていますが、そのカバーの内側に作者からのメッセージが書かれていることがありますよね。また、雑誌の誌面には広告が入ることがありますが、単行本ではそのスペースが空くので、そこに作者の近況報告とか、最近観た映画の話とかのコラムが入ったりします。それから、最後にあとがきが付いていたり、場合によっては“おまけの4コマ漫画”が付いていることもあります。そういうものも全部訳します。
また、雑誌掲載ものが単行本になったときには、作者が見直して、画を書き換えたり、擬音を足したり、台詞をちょっと変えたりしていることもあります。翻訳者がすべて照らし合わせてチェックし、変わった部分を新たに訳さなければなりません。
チャンスがあれば、どんなジャンルにも挑戦してみて
ずっと少女漫画を訳していましたが、初めて、しかも自分から志願して訳した少年漫画があります。『封神演義』という作品です。中国ファンタジーのアレンジで、SFの要素も加わっています。ファンタジーもSFも好きなジャンルなので、珍しく少年漫画なのに単行本を買い揃えた作品でした。近々、英訳されるだろうという噂は聞いていたので、編集者さんにみずからアピールして、念願叶って訳すことになりました。
少女漫画とは勝手が違うので、最初はやはり戸惑いました。バトルシーンではお互いののしって挑発しあうのですが、その口調をどのくらいまで激しくしてもいいのか、うまくつかめなかったのです。編集者さんからも「セリフに男らしさが足りない」とダメ出しされて、これを読んでみてと『NARUTO』を渡されました。読むと、なるほどなと納得できました。まず、ののしり言葉のバリエーションが広がりましたし、「ああ、ここまで強い口調に訳してもいいんだ」という加減がわかりました。それを手本にもう一度訳し直し、ページを進めていくうちに勘どころがつかめるようになりました。
『黒執事』を訳したときは別の意味で苦労をしました。こちらは19世紀末のビクトリア女王の時代を舞台にしたイギリス貴族の話です。時代も設定も特殊なので、まず資料を読みあさりました。
イギリスのマナーハウス(邸宅)の写真集、貴族の1年を通しての暮らし、使用人の種類や仕事、寄宿学校を紹介する本、等々。調べものは大変ではありましたが、昔インターナショナルスクールで学んだことが出てきたりして、知的好奇心を大いに刺激されました。
Gotta love what you’re doing!
漫画が好きで、日本の漫画を翻訳して世界に届けたいという方はたくさんいらっしゃると思います。漫画翻訳家になるためには、まず何よりも、基本的な漫画の読み方ができることが大事です。どの分野でも同じだと思いますが、漫画が好きで、漫画をたくさん読んでいる人でないと、漫画の翻訳はできません。例えば、画が何もなくてセリフしか書かれていないコマがあったとしても、漫画を読み慣れている人であれば、これは誰のセリフで、作者はどういう思いでこのコマを書いたのかが理解できると思うんです。そんなふうに作品を読み込んだうえで、訳を自然な英語のセリフに仕上げられること、セリフに込められているキャラクターの感情も英訳に載せられることが必要になります。そのためには厳しいようですが、やはりネイティブ並の英文を書けることが大前提になると思います。
最初は少年漫画から始まったアメリカでの漫画の翻訳出版も、その後、少女漫画そして『テラフォーマーズ』『東京喰種(トーキョーグール)』などに代表されるいわゆる青年漫画へとニーズが広がっています。またアメリカだけではなく、ヨーロッパやアジア各国でも漫画は人気です。ですから需要は今後も増えると思います。さらにサイマル配信が増えれば、雑誌発売と同時に一斉に翻訳しなければならないので、そのぶん翻訳家はさらに必要になってくるでしょう。
興味の無い分野の勉強をするのはツラいし、実力も身につきにくいと思うので、需要があるからなど外的要因のみで勉強する分野を絞るのはお勧めしません。ただ、私自身がそうだったように、自分がどのジャンルの翻訳に向いているかは実際にやってみないと案外わからないものです。チャンスがあれば、何でも挑戦して自分の可能性を試してみることも大事だと思います。翻訳の仕事は大変なことも多いですが、本当に楽しく、知的好奇心もみたされ、やり甲斐があります。ぜひ自分にあったジャンルを見つけていただきたいと思います。
取材協力
木村智子さん
マサチューセッツ工科大学理学部数学科を卒業後、ボストン大学大学院に進み、Computer Science科修士課程を修了。帰国してソフトウェアエンジニアとして就職。いく度か転職し、のべ14年間エンジニアの職に従事する。2004年に米 VIZ Media社出版の“Full Moon wo Sagashite”(邦題:『満月をさがして』)で翻訳家デビュー。以来12年間で訳した単行本の数は200冊を超える。主な翻訳作品には“So Cute It Hurts!!”(邦題『小林が可愛すぎてツライっ!!』)、“Kamisama Kiss”(邦題『神様はじめました』)、“Black Butler”(邦題『黒執事』)等がある。