PERSONS
翻訳のテクニックと自分の感性
フェロー・アカデミー修了生でもある布施さんが、学習時代に恩師からかけられた言葉とは?
翻訳に出会うまで
中学時代から英語は好きでしたが、その中でも中・高・大学を通じて一番好きだったのが、和文英訳の授業でした。卒業後は高校の英語教師になりましたが、教えていてもやはり、自分の訳を生徒に聞かせたり、生徒の訳を添削したりするのが好きでした。ただ、自分が高校教師に向いているとは思えなくて、これを一生続けていくことはできないなと感じていたんですね。
翻訳に出会うまでは何年か模索を続けました。翻訳そのものは、外語大の英語学科卒業ということで、早い時期から個人的に頼まれることもあって、ちょこちょことアルバイト的にやっていたんです。
アメリカで4年ほど暮らしたことがきっかけで、30歳過ぎたころに日本語教師になろうと思い立ち、2年間みっちり日本語の勉強をしました。そうしたら、日本語のおもしろさに目覚めてしまって。そんなときにまた翻訳を頼まれてやってみたら、英語を教えた経験や日本語の勉強が「生きた」んです。すごく楽しかったですね。
ある企業のお手伝いで、さまざまな業種がチェーン展開するためのマニュアル類を翻訳したんですが、幼児教室、ファストフード、ハウスクリーニングの店など、それこそあらゆる業種があって、例えばハウスクリーニングの店だったら、お掃除の仕方はもちろん、店舗のレイアウトから営業車に貼るステッカーの位置まで、なんでも訳すわけです。
「いまいち賞」獲得
そのうちにプロの訳者としても通用するのか試してみたくなって、あるコンテストに応募してみたら見事に落ちまして、これは本格的に勉強しなければだめだな、とフェロー・アカデミーの通信講座を受けることにしました。ただ、少し経験もあったものだから、課題が届くとすぐ訳し終えてしまうんです。次の教材が来るまでが待ち遠しくて。
翻訳者ネットワーク「アメリア」にも入会していたので、クイズとかコンテストにも応募してみることにしました。そうしたら、初めてクイズに応募した訳を情報誌に載せてもらえたんです。歌詞の訳だったんですけど、「いまいち賞」といって(笑)、誤訳はあるけれどおもしろい、という理由で。それでうれしくなって、文芸翻訳の学習経験もないのに、ミステリーから児童文芸まで、なんでも応募するようになったんです。そうして毎回のように「いまいち賞」をいただいていました(笑)。最優秀賞とはあまりご縁がなかったですね。
東江一紀さんとの出会い
私は特にミステリーなどでは、英文を読んだときに日本語が透けて見えるんです。ミステリーのコンテストに応募したときもそうでした。審査員の方がちょっと変わっていらして、私の訳がしっちゃかめっちゃかに暴れているところがよい、という理由で気に入ってくださり、特別なご褒美をいただきました。4位までにも入らなかったらしいんですよ。でも、元気のいい訳だというので、アメリアの情報誌に1位の人の訳と並べて載せてもらえたんです。両方を比べてみよう、ということで。
そのあと、その審査員の先生に、実務ではなく文芸翻訳をやりなさいと言われました。当時、私が志望していたのは、雑誌の記事や広告関係でしたが、残念なことに当時そういう分野は需要が少なく、実務でやっていくには、コンピュータや経済、法律に強くないと厳しいと言われていたんですね。でも私はそういう分野が苦手。しかも短期間にかなりの分量をこなす必要があり、急ぎの仕事を引き受けると必ず胃を悪くして周りがびっくりするほどやせてしまうんです。でも、ミステリーを訳しているあいだは楽しくて楽しくて全然そんなことはなかったです。
それで、出版翻訳を勧めていただいた先生には即答をせずに、いろんな作品の原書と訳書を買ってきて自分で訳しては訳書と付きあわせてみるという勉強を、3カ月間がむしゃらに続けたんです。
3年だけがんばってみてだめだったらまた実務翻訳の勉強を一からやり直そうと覚悟を決めて、その先生が講師をされていた通信講座「マスターコース」を受講しました。1回目の添削課題を出したら先生から「空白の3カ月の間にすごく伸びましたね。これだったらプロになれますよ」とほめられて、いきなり下訳をしてほしいと頼まれたんです。うれしかったですね。映画『エイリアン<3>』のノベライズ本でした。でも先生の指示でまずプロローグだけ訳して送ったら「訳し方が違う。僕が訳したのを送るから、それを見て次を訳してください」と言われました。送られてきたものを見たら「あ、そういうことね」とわかりました。で、次を訳して送ったら「これでいいです。そういうことです」(笑)。叱られながら何とか3カ月で終わらせたら、先生が「ここまでできるとは思わなかった」と喜んでくださいました。その先生とは、翻訳家の東江一紀さんです。
「常に普通の人でいたい。一般の人の感性を失いたくない」
それ以降、東江一紀先生から何本か下訳をさせていただいたのですが、その中の『氷の微笑』という映画のノベライズ本が大ヒットし、私も思いがけないギャラをいただきました。それでフェロー・アカデミーの通学講座に通うことができたんです。通学しながらいろいろな仕事を紹介していただき、自分の名前で訳書を出すこともできました。
それからは年に2~3冊、資料探しの大変なノンフィクションを抱えた場合は1~2冊のペースで訳しています。特にジャンルを絞ってはいません。私の訳が気に入っていただけた方はどうぞ使ってください、というスタンスです。ジャンルが何であれ、原文にあった日本語、しかも日本人の生理にあった、日本語の特質に沿ったできるだけ自然な訳文を書くように心がけています。
常に普通の人でいたい、一般の人の感性を失いたくないと思っています。テレビもよく見るし、セールがあれば行きます。そういう普通の人に読んでもらいたいんです。翻訳書に訳注はいらない、そんなの必要ない人が読めばいい、と言う人もいますが、私はそれは違うと思うんです。翻訳書は読んだことないけど、ちょっとおもしろそうだから、と手に取った人が途中で投げ出さないものにしたいと思って訳しています。
大事なのは、「自分が持っているものを見つける」こと
私自身がフェロー・アカデミーの講師となった今、翻訳のテクニックは教えられますが、日本語に対する感性は、学んで身につけられるものではないと思うんです。それは日頃から自分がどんな日本語にどれだけ浸っているかで決まるのであって、付け焼刃でどうにかなるものではありません。それより大事なのは、「自分が持っているものを見つける」ことだと思うんです。たとえばとても上品な方で、どうしても暴力的な言葉が訳せないというような場合はミステリーは無理でしょう。自分の適性を見きわめて進路選択をすべきだと思うんです。
プロの翻訳家の方たちは皆さん、実にいろいろなことを知っていらっしゃいます。男性の翻訳家でも女性誌やロマンス小説を読む人もいる。何にでも好奇心を持って接することは大事だと思います。
私自身、小さいときから本が大好きでしたからありとあらゆるものを読んで育ちました。いまでも乱読家で、おもしろそうだと思ったらジャンルに関係なく何でも読みます。人の一生なんてそう長くはないので、できるだけたくさんのことを知ってから死にたいですね。読書だけではなく、さまざまな体験を通じて自分を豊かにしたい。そして悩んだり考えたりしているさなかでも、常にいろいろな日本語に触れていたい。わたしにとってはそれが財産なのだと思っています。
本になっていく過程が楽しい
翻訳をはじめた最初の頃は訳すだけでうれしかったけれど、今は、本ができあがっていく過程が、それも後になればなるほど楽しい。編集や校正の方たちに、私の訳したものを細かいところまで読んでいただいて、いろいろなコメントをもらい、一緒によいものを作り上げていくという作業がとても楽しいです。
ただ、経験を積めば積むほど、自分の能力と妥協できなくなって、ある意味、仕事がしんどくなってきましたね。もっとぴったりくる表現があるはずだって自分を追いこみ、イメージどおりの日本語が浮かんでくるまで、うんうんうなっている。自分の中のハードルが上がってしまったんです。それは苦しいです。
フェロー・アカデミーで教えていることとも関連はあると思います。生徒さんたちに自分の訳をさらすわけですから下手な訳はできませんよね。人に厳しくするなら自分にも厳しくしないと。
私の支えは修業時代にフェローの先生方にいただいた励ましのお言葉です。東江先生の「これならプロになれますよ」というひとことは、もちろんその一つ。私も、少しでも受講生の励みになるような指導ができればうれしいと思っています。
取材協力
布施由紀子さん
出版翻訳家。『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』(岩波書店)、『核は暴走する』(河出書房新社)、『ブッチャーズ・クロッシング』『アウグストゥス』(作品社)、『天国の扉をたたくとき』(亜紀書房)、『1493―世界を変えた大陸間の「交換」』(紀伊国屋書店)、『夜明けまであなたのもの』(二見書房)、『シェクスピア・シークレット』(角川書店)、『核時計 零時1分前 キューバ危機 13日間のカウントダウン』(NHK出版)、『捜査官ケイト 消えた子』(集英社)など訳書多数。