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reco本リレー【22】木下眞穂さんのreco本
『シンパサイザー』
「次はなんの本を読もうかな」と思ったら、ぜひreco本を手に取ってみてください。
バトンが誰に渡るのかも、お楽しみに!
木下眞穂さんのreco本
木下眞穂さんのプロフィール:
ポルトガル語翻訳家。訳書にパウロ・コエーリョ『不倫』『ブリーダ』『マクトゥーブ 賢者の教え』、ジビア・ガスパレット『永遠の絆』がある。その他、ポルトガル語映画の字幕監修・字幕訳なども手掛けている。
この作品の読みどころ
スパイ小説は苦手だ。いや、殆ど読んだことがないので食わず嫌いだ。
それなのに「私はスパイです」で始まるこの小説を手に取った日から、分厚い単行本をどこに行くにも携えて(文庫本も同時刊行だったのだけど)、時間を盗むようにして開いては、細い刃の上を歩くような心持で主人公とともに数日を過ごした。緊張し、鬱々としながらも「すごい本を読んでいる」という興奮がうれしかった。
フランス人神父とヴェトナム人少女との間に私生児として生まれた主人公は、北ヴェトナムのスパイとして南ヴェトナムの上層部に深く喰いこんでいた。しかし主人公は敵方である彼らに心を寄せることをやめられない。特殊な出自ゆえに拠って立つ所がないせいだろうか、主人公は思想も行動もどこか曖昧で、私たちも彼の敵は誰で味方は誰だったか、ふとすると混乱してしまう。
冒頭から、現在の彼は囚われの身で、告白を強いられていることがわかる。しかし、誰に、どこで、なぜ? それを知るには薄紙を剥ぐように頁をめくるしかない。
卓越したインテリジェンスを持つ主人公が、繰り返し自分は何者かを問い、母を恋い、父を求め、友との約束にすがる。その哀しい姿に心を寄せ、彼の米国文化に対する痛烈な批判にしたり顔で頷きかけて私は愕然とした。自分も同じようにヴェトナム戦争を『物語』として消費してきたではないか。私も彼とともに苦しいが長い旅をした。本を読む、とはこういうことだと思った。
担当編集者からのコメント
アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀新人賞とピュリッツァー賞という、なかなかない組み合わせの受賞歴を持つ長篇です。しかもこれがデビュー作。いったいどのような作品かと読み始めたら、優れた知性と生々しい感情あふれる濃密さで描かれる主人公の旅路に、なんども圧倒されることになりました。アメリカ、そして世界に影響を与えたヴェトナム戦争、その終結から40年を経て現れた、優れて今日的な作品です。
早川書房 永野渓子さん
翻訳者 上岡伸雄さんからのコメント
名前も顔も露わにしない語り手ですが、訳しているときにこれだけ強烈な存在感を示す小説の登場人物はいなかったように思います。複数の側面を常に抱え、そのあいだを綱渡りで歩いている「私」。類稀な語学力を駆使してスパイとなった彼は、超一流の語り手でもあって、ユーモアも含んだ語り口で自己の遍歴を披露していきます。しかし、最終的には北にも南にも、西洋にも東洋にも属せない彼の悲哀が、ずっしりと心に残るのではないでしょうか。